تسجيل الدخولそれは、私がノートに書いた、ルールだった。
しかし、そのルールを守るには、あまりにも心が揺れてしまった。
金曜日、九条のオフィスを訪れた。コンクリートうちっぱなしのミニマムなその部屋は思ったより整頓されていて、九条の雰囲気に反して几帳面さを感じた。
(この人、意外と真面目なのかな)
本人は部屋に中央にある、使い込まれたル・コルビジェのソファにどかりと腰を落とし、ここが自分の定位置だと言わんばかりにふんぞり返っていた。
「さあて、お前の仮説はどうなるかな」
私は対面に置かれたアーロンチェアに座り、スマホでABZフーズの中間決算を見守る。
仮説では30%以上の業績上方修正。
その結果は——
売上は予想以上に増加。
しかし利益が、市場予想を下回る“微増”に留まった。宅配アプリの利用者の増加、物価高に伴う単価上昇、ライバルの撤退ニュース——好材料が揃ってたのに何故!?
その理由というのが「仕入れコストの上昇」「人件費の圧迫」といった、四季報にない、私が考慮していなかった要素ばかりだった。
結果株価は、購入時から5%マイナスのまま止まっていた。
——仮説は崩れた。
『下がってる時に売らない』というのは下落中に狼狽売りをしないというルール。
株価が落ち着いている今、自分ルールに従うなら
『仮説が崩れたら即撤退』ということになる。私はスマホを握る手を震わせながら、売却ボタンを押した。
初の投資結果は500円の損失。
しかしその数字以上に、ショックは大きかった。「——なんで、あんなに考えたのに」
そうつぶやいた時、速報が飛び込んできた。【ABZフーズ、競合企業ピナックと経営統合・合併を視野に協議】
次の瞬間、株価が急騰した。マイナスから一転、+12%へ反転する。
「……え? なによそれ……」
売った直後に上昇?
目の前のチャートが信じられなかった。こんなの、仮説でも何でもない。完全な“想定外”。
だけど——
「……今買い戻せば、損失を取り戻せるかも!」 それをじっと見ていた九条が、静かに呟く。「——おい、お前が最初に決めたルール、忘れたのか?」
その言葉に、背筋が冷たくなる。「お前が今やろうとしてるのは、“仮説ではない勝ち”を追う行為だ。
仮説が崩れたら即撤退──それがお前のルールだろうが」私は、覚悟しながら息を吐いた。
「はい……仮説外です、でも今ならまだ」
「お前が決めた“ルール”を、お前自身が破るなら、一体何のために存在する?」
そうだ、これは投資だけの話じゃない。
私は、これまでずっと“他の誰か”に振り回されて生きてきた。
母に、その男に、会社に、詐欺師に……
だからこそ、自分のルールを初めて書いたとき、あんなに心が震えたんじゃなかったか。
「たしかに今、私は……私を裏切ろうとしてました」
息を吐き、スマホを伏せた。
落ち込んでいる私に、九条が静かに言った。「いいか、偶然に頼るな。お前の目で”中身”を見て、判断したことからブレるな。それが自分を守るってことだ」
その夜の帰り際、九条が私を呼び止め、静かに
言った。「……今日、お前は買わなかった。損はしたかもしれんが、それだけは……褒めてやる」
それだけで、私は泣きそうになった。褒められたのが嬉しいんじゃない、心の底から”悔しい”と思ったからだ。
自分で必死に考えて、これが正しいと導き出したものが、違っていた——
それが、こんなに”悔しい”とは思わなかった。
人生で初めての”感覚”。
私はこの失敗を、決して忘れないと誓った。 翌日——財界パーティに参加する日その前に私は、三條圭が指定した六本木レジェンド倶楽部が入る高層ビルの側にある『メゾン・ルミナス』を訪れた。
ドアの前には、黒いスーツを着こなしたスタッフらしき人が立っていて「持たない者は入るな」という警告のように見えた。「あの——天道美咲です。三條さんに言われて……」
そう言いかけたところで、スタッフはニコリと笑顔をみせる。
「うかがっております。天道様、どうぞお入りください」
スタッフに促され高鳴る心臓を抑えながら、私はガラス扉をくぐった。入った瞬間に漂う、紫檀のような香り。
2階まで届く高い天井。 最小限しか展示されていない高級な家具やドレス。私にとってここは、まさに別世界だ。
以前なら、恐れ多くて店内を見ることすらできなかっただろう。
すると、青くタイトなシルクのスーツに身を包んだ一人の男性が奥から現れた。
「はじめまして。へえ、あなたが圭ちゃんの“特別案件”の子かぁ」
女性のような口調——でも目だけが鋭く、全身に“プロ”の空気を纏っていた。
優雅で洗練された柔らかな動作と着こなし。そして何より、キャラクターが際立っている。
彼の名前は本庄マイク——
業界では知る人ぞ知る天才スタイリスト。
そして、クセの強さでも天下一品……私は店内の一角にある試着室に通された。
ずらりと並ぶドレス、ヒール、アクセサリー。
まるで超富裕層の日常を、モニター体験している気分だった。「さてさてぇ〜今日のシンデレラをどう仕上げてやろうかしらねぇ」
穏やかな口調なのに、目力がやたら強い。「じゃあ……ちょっと、そこに立ってみて。肩の力抜いていいのよ〜」
ライトに照らされた白壁の前に立つ私は、緊張で背筋を張り詰めていた。
“その時—美咲の緊張を他所に、本庄マイクは天才ならではの審美眼で彼女をスキャンし始めていた。
そして全身を一瞥しただけで、体幹バランス・首の長さ・目線の動き・肌の光の乗り方を、ほぼ一瞬で読み取った。(ふ〜ん……この子、持ってるわね)
本庄は内心で笑みを浮かべる。
地味で“OLテンプレ”みたいなベージュのブラウスに、ややくたびれたタイトスカート。
しかし、地味な服装と、その下に隠れている骨格と肌の質感のギャップが、むしろ本庄の興味を強くそそった。
(首筋が綺麗ね、腰のラインが甘いくせに締まりがある。
大きな目はやや垂れ気味だけど、周囲に媚びてないのがイイわ。 そして感情で大きさが変わるこの瞳。 その目の奥底に宿る、強い意思…… ……それなのに自分じゃ“少し顔が良い”程度だと思ってる。……こういう子、あたし大好きよ)
表情は柔らかく、微笑みすら浮かべているが、本庄の脳内はすでにスタイリングの“設計図”が描かれている。
一通り観察を終えた本庄の唇の端が、静かに持ちあがる。
(この子、間違いなく化けるわ……。下手すると圭ちゃんが本気で惚れる可能性だってあるかも。ふふっ面白い)
ただし本庄は、そんな素材のポテンシャルを本人に知られないほうが良いと考えていた。
自らの気づきで開花する瞬間にこそ”劇的な美“があるからだ。 こういう独特な思考こそが、彼が『特別』である理由でもあった。” 鏡の前に立つ私を、じっと見ていた本庄が、首をかしげた。(何?どこか変だった!?なんかもう……怖い)
私は、いまにも不安で押しつぶされそうだった。
「カクテル以上って言ったけど、どんな“あなた”で行きたい?」
その問いに、私の胸がざわつく。
「どんなと言われましても……こういうの初めてなので」
「じゃあ……質問を変えるわ。圭ちゃんの好みに寄せていくか、あなたの良さを引き出すか。どっちでいく?」本庄の問いに、私は一瞬だけ迷った。
(最初の投資に失敗した。仮説は外れた。もしかして今日、三條さんに切られるかもしれない
だったら、少しでも“彼の好みに寄せて”おいたほうが……)
——そんな思考が、頭をかすめた瞬間だった。
脳裏に、九条の言葉が焼き戻ってきた。
——「勝ちたいなら、自分のルールを守れ」
(そうだ、投資だけじゃない。私にも|意地《ルール》がある。)
私は少しだけ沈黙してから、ゆっくりと目を上げた。
息を整え、小さな声で、しかし意思を込めて言った。「私の良さが光るスタイルで、お願いします」
その言葉を聞いた瞬間、本庄の目が細くなった。
(やっぱり!この子イイわねぇ)
「分かったわ。あとは任せて。ここからは私の仕事よ」
それは本庄マイクの中にも、小さな火が灯った瞬間だった。
それから約1時間後——
私は、『六本木レジェンド倶楽部』の入り口に立っていた。
——そして、この夜が、運命をまた大きく動かすことになるとは、まだ知る由もなかった。
(つづく)
土曜日の朝。 目を開けた瞬間、胃の奥が重かった。 眠れなかった。結局、ほとんど。 スマホを手に取る。 昨夜の圭からのメッセージ。 『明日の夜、話がある。19時に、いつもの店で待っている』 九条からのメッセージ。 『大事な話がある。明日、必ず来てくれ』 ——待って。 19時、いつもの店。 20時、九条のオフィス。 あれ、これって微妙にダブルブッキングしてる? 昨夜、返信した時は気づかなかった。頭がぼんやりしていて、確認もせずに、どちらにも『行きます』と送ってしまった。 ——どうしよう。 1時間差。 圭との話が早く終われば、間に合うかもしれない。でも—— 『話がある』 二人とも、同じ言葉を使っていた。 短い話で終わるとは、思えない。 仕事のことを考えれば、九条だ。大富グループへの対策、凛の調査結果——話し合うべきことは山積みだ。 でも—— 副社長室で見た、冷たい目。『天道か。何か用か』という他人行儀な声。 それなのに、向こうから『話がある』と言ってきた。 『もうお前とは関わらない』——そう言われるのかもしれない。 それとも—— いや、期待するな。 まずは圭を優先しよう。 九条には、少し遅れると伝えればいい。 九条にメッセージを送る。 『すみません、少し遅れます。20時半には必ず伺います』 送信。 数分後、返信が来た。 『わかった。無理するな』 いつもより素っ気ない。 ——九条も、何か変だ。 いや、考えすぎだ。きっと。 シャワーを浴びる。着替える。化粧をする。 鏡の中の顔色の悪さを、チークでごまかす。 休日出勤だ。どうせ、見られる相手は限られている。 ◇ 今日もなんとか、仕事を終えた。 土曜は証券市場が閉じているので、株価は公には動かない。 それだけが、唯一の救いだった。 まあ、何も解決はしていないけど。 このまま放置すれば、含み損は週明けには30億に達するかもしれない。 夕方、18時。 タクシーに乗り込んだ。「六本木の——」 行き先を告げようとした瞬間、スマホが鳴った。 圭からだ。「もしもし」『今、どこにいる』 いつもの低い声。でも、どこか——張り詰めている。「タクシーに乗ったところです。これから、いつもの店に——」『店を変える』 ——え?
火曜日、午後2時。 三條グループ本社ビル、28階会議室。 長いテーブルの端に座らされた私を、取締役たちの視線が刺していた。「それで、天道さん。この25億円の含み損について、どうお考えですか」 取締役の一人——名前は覚えていない。五十代くらいの、眼鏡をかけた男性——が、冷たい声で言った。 パサ、パサ。資料をめくる音が、やけに大きく聞こえる。「現在、市場の動向を注視しながら——」「注視? 注視している間に、損失は膨らみ続けていますが」 別の取締役が口を挟む。「素人に600億を任せた結果がこれですか」 ——素人。 分かってる。ついこの間まで、借金を抱えた底辺OLだった。 でも——「三條副社長の強い後押しがあったとはいえ、我々はこの人事に当初から懸念を示していました」「結果的に、その懸念が的中したわけですね」 空調が、低く唸っている。それ以外は、沈黙。 同情ではない。期待でもない。 ——処分を待つ被告を見る、裁判官の目だ。「運用資産の縮小を提案します」 最初に発言した取締役が、書類を閉じた。「現在の600億を、100億まで段階的に縮小。残りは本社の運用部門で管理する」 ——100億。「MISAKIシンデレラファンドは事実上の解体となりますが。天道さんには、部門長など役職を用意しますので、配置転換を——」 ——勝手なことを。原資の200億を600億まで拡大させたのは、私と九条なのに。 ——手柄だけ奪うつもりだ。「お待ちください」 声が出ていた。 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。 取締役たちが、私を見る。「この下落は、大富グループによる意図的な攻撃です。株価操作と風説の流布——明確な市場操作の証拠があります」「証拠?」「はい。空売りの異常な増加、関連銘柄との連動した売り圧力、SNSでの組織的な情報拡散——すべてが連動しています」 昨夜、九条と話し合った内容を、そのまま伝える。 取締役たちの表情が、わずかに変わった。「つまり、我々が撤退すれば——大富グループの思う壺です」「しかし、現実に損失は——」「本当に損失ですか? 今この時点で清算したとしても、300億以上の利益が確定しますけど」「……それは」 発言した取締役が口ごもる。隣の男が、気まずそうに資料をめくり直した。「違いますか? 簡単な算
月曜日の朝。 出社して最初に確認したのは、保有銘柄の株価だった。 画面に表示された数字を見た瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。 ——レヴァンスト、前日比マイナス4.2%。 先週から続いている下落が、止まらない。 原因は分かっている。大富グループの仕掛けだ。 あの手紙が届いてから3日。彼らは宣言通り、動き始めていた。 レヴァンスト株に対する空売りの増加。関連銘柄への売り圧力。SNSでの風説の流布。 一つ一つは小さな動きだ。でも、それが積み重なって——じわじわと、株価を蝕んでいる。 大量にポジションを持っている私のファンドには、それがダイレクトに響く。「天道さん」 白石凛の声がした。振り向くと、彼女が資料を手に立っていた。「含み損、20億円を超えました」 ——20億。「対策は検討されていますか」「……検討中です」「そうですか」 凛の声には、感情がない。責めるでも、同情するでもない。ただ、事実を述べているだけ。「取締役会から、説明を求められています。明日の午後、臨時会議が入りました」「……分かりました」 凛が去っていく。 私は画面を見つめたまま、動けなかった。 ——どうすればいい。 構造を見て戦略を組み立てるのは得意だ。でも、持つ側として資産を守る経験も知識もない。 ——そりゃそうだ。最近まで、借金を抱えた底辺OLだったんだから。 分からない。何も、分からない。 ◇ 昼休み。 食欲がなかった。でも、何か口にしないと倒れそうだった。 コンビニで買ったおにぎりを、給湯室で齧る。味がしない。砂を噛んでいるみたいだ。 スマホを見る。 九条からの返信は、まだない。あの夜から、ずっと。 ——何かあったのかな。 画面を閉じる。今は、自分のことで精一杯だ。 廊下から、声が聞こえてきた。「天道さん、やばいらしいよ」「20億の含み損だって。素人に600億任せるからだよ」「三條副社長も、見る目なかったね」 ——また、か。 もう慣れた。慣れたはずだ。 おにぎりを半分残して、席に戻った。 ◇ 午後3時半。大引け。 画面を見る。 レヴァンスト、終値でさらにマイナス1.8%。 含み損は、25億円に膨らんでいた。 ——私たちもショートポジションを持つ? 空売りして、下がったところで買い戻せば。
金曜日の夜。 六本木レジェンド倶楽部。 業界パーティの会場は、相変わらず眩しかった。シャンデリアの光が、磨き上げられた床に反射している。シャンパングラスが触れ合う音。低く抑えた笑い声。高級な香水の匂いが、空気に溶けている。 ——また、ここか。 数ヶ月前、初めて圭さんに連れられて来た時のことを思い出す。あの時の私は、何も知らなかった。この世界の構造も、自分の立ち位置も。 今は——少しだけ、見えるようになった。 でも、見えるようになった分だけ、息苦しさも増している。「美咲、大丈夫か」 隣を歩く圭が、小声で聞いてきた。「はい、平気です」 嘘だ。平気じゃない。 この1週間、大富グループの動きを追い続けていた。九条さんからの返信はまだない。白石凛の資料の違和感も、まだ解消できていない。 頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。「顔色が悪い」「……そうですか?」「ああ。無理するな」 圭の声が、いつもより柔らかい。 ——この人は、本当によく見ている。 私の小さな変化を、見逃さない。それが嬉しいような、怖いような。「三條副社長、お久しぶりです」「やあ、ご無沙汰してます」 圭が、近づいてきた男性と握手を交わす。私は一歩下がって、その様子を眺めていた。 こういう場での圭は、いつもと違う。完璧な笑顔。完璧な所作。完璧な会話。 ——仮面だ。 あの笑顔の下に、何があるのか。私には、まだ分からない。 ◇ パーティが始まって1時間。 圭は次々と挨拶に追われ、私は一人でシャンパンを片手に壁際に立っていた。 人の流れを観察する。誰が誰と話しているか。どんな表情で。どんな距離感で。 ——あの二人は、表向きは仲が良さそうだけど、目が笑ってない。 ——あの女性は、あの男性に気があるけど、男性の方は別の誰かを探してる。 ——あの老紳士は、さっきから三回も時計を見た。早く帰りたいんだろう。 こういうことが、自然と目に入ってくる。昔からそうだった。でも、それが「武器」だと言われたのは、九条さんが初めてだ。 その時——「久しぶりだな、天道美咲」 背後から、声がした。 低い声。聞き覚えがある。聞きたくない声。 振り向く前に、分かっていた。 大富龍平《だいとみりゅうへい》。 振り向いた瞬間、彼の顔が視界に入った。 相変わらず、整った顔立ち。
九条のオフィスは、相変わらずだった。 コンクリート打ちっぱなしの壁。使い込まれたル・コルビュジエのソファ。窓際に積まれた資料の山。かすかに漂う煙草の残り香。 1ヶ月ぶりに訪れたこの場所は、何も変わっていない。 ——私だけが、変わってしまったのかもしれない。「よう、久しぶりだな」 九条がソファから立ち上がった。いつものように無精髭を生やし、革ジャンの下には皺だらけのシャツ。だけど腕にはロレックス。このちぐはぐさは、もう見慣れた。「すみません、ご無沙汰してました」「忙しかったんだろ。600億の重さは、俺にも想像がつく」 九条がキッチンに向かう。コーヒーメーカーのスイッチ。カチッ。コポコポと水の音。 私はソファに腰を下ろした。革が軋む。体が沈み込む。 ——ここだと、息ができる。「で、何があった」 九条が振り返らずに言った。コーヒーの香りが、部屋に広がり始めている。「……何も、ないです」「嘘つくな。声でわかる」 ——バレてる。「初の大型投資判断があるんです」 言ってしまうと、肩から力が抜けた。「レヴァンストの追加買い増しを検討してます。でも、市場環境が読めなくて……」 コーヒーカップが、目の前に置かれた。白い湯気が立ち上っている。 九条が向かいのソファにどかりと座る。「見せろ」 私はバッグから資料を取り出した。昨夜まとめた分析レポート。数字とグラフがびっしり並んでいる。 九条がページをめくる。眼鏡をかけていないのに、目を細めて読んでいる。老眼なのかもしれない。聞いたことはないけど。 沈黙が落ちる。 パサ、パサ、パサ。紙をめくる音だけが、部屋に響いている。 その間、私は九条の横顔を見ていた。 皺が増えた。目の下の隈も、前より濃い。 ——何かあったのかな。 聞けない。私は弟子で、彼は師匠だ。「悪くない」 九条が顔を上げた。「え?」「この分析、悪くないって言ってんだ。むしろ、1ヶ月前より格段に良くなってる」 その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。「ただ——」 九条が資料の一点を指差す。「ここだ。大富グループの動向を、お前は軽視しすぎてる」「大富……」 その名前を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。 大富龍平。あの六本木のパーティで、私に絡んできた男。 そして、レヴァンストの買収工作を見破った私のせ
朝、目を開けた瞬間から、胃が重かった。 カーテンの隙間から漏れる光が、白すぎる。 スマホを見る。7時12分。アラームの3分前。最近はいつもこうだ。体が勝手に起きる。眠れてないのに、眠れない。 布団から出る。素足に、フローリングの冷たさが沁みる。 ——今日で、ちょうど1ヶ月か。 シャワーを浴びる。お湯の音。ザー、それだけが耳の奥に響いている。 いつもなら何も考えなくていい時間。 でも今日は、考えてしまう。 600億。 その数字が、頭から離れない。 ◇ 三條グループ本社ビル。 エントランスに入った瞬間、空調の冷たい風が顔に当たった。無機質だけど、アロマオイルのようなかすかな匂い。 ヒールの音が、大理石の床に響く。コツ、コツ、コツ。 自分の足音なのに、他人のみたいに聞こえる。 エレベーターホールに向かう。すれ違う社員たちの視線を感じる。見てる。絶対見てる。 ——あれが、財界のシンデレラ。 ——600億任されて、調子に乗ってる。 ——素人のくせに。 何も聞こえてない。でも、そう言われてる気がする。 エレベーターのボタンを押す。ピッ。 沈黙。わずかな空調の匂い。 チン。 扉が開く。 ——良かった、中には誰もいない。 32階のボタンを押す。ピッ。扉が閉まる。シュン。 上昇、足元がふわっとする。エレベーター特有の、こんl感覚が前から苦手だった。 小さな鏡に、自分の顔が映っている。 目の下に、うっすら隈がある。コンシーラーで隠したつもりだった。 ——まあ、いいか。 誰も、そんなところ見てない。みんな、私の顔じゃなくて、600億という数字を見てる。 チン。 扉が開く。32階。 MISAKIシンデレラファンドのオフィス。 一歩、踏み出す。 カーペットが、ヒールの音を吸い込んだ。 ◇「天道さん、おはようございます」 声がした。冷たい声。 振り向くと、白石凛が立っていた。 東大首席。外資系証券出身。私より3歳年下。金融知識では、比べものにならない。 目が合う。合ってしまった。逸らせない。逸らしたら負けだ。負けるわけにはいかない。「おはよう、白石さん」 声が震えてないか。大丈夫だ、たぶん。「今日の日経朝刊、ご覧になりましたか」 凛が新聞を差し出す。その動作が、妙にゆっくりに見えた







