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第5話:私を守れるのは私

Author: 月亭脱兎
last update publish date: 2026-09-06 16:25:22

 ——“仮説が崩れたら即撤退”

 それは、私がノートに書いた、ルールだった。

 しかし、そのルールを守るには、あまりにも心が揺れてしまった。

 金曜日、九条のオフィスを訪れた。

 コンクリートうちっぱなしのミニマムなその部屋は思ったより整頓されていて、九条の雰囲気に反して几帳面さを感じた。

 (この人、意外と真面目なのかな)

 本人は部屋に中央にある、使い込まれたル・コルビジェのソファにどかりと腰を落とし、ここが自分の定位置だと言わんばかりにふんぞり返っていた。

「さあて、お前の仮説はどうなるかな」

 私は対面に置かれたアーロンチェアに座り、スマホでABZフーズの中間決算を見守る。

 仮説では30%以上の業績上方修正。

 その結果は——

 売上は予想以上に増加。

 しかし利益が、市場予想を下回る“微増”に留まった。

 宅配アプリの利用者の増加、物価高に伴う単価上昇、ライバルの撤退ニュース——好材料が揃ってたのに何故!?

 その理由というのが「仕入れコストの上昇」「人件費の圧迫」といった、四季報にない、私が考慮していなかった要素ばかりだった。

 結果株価は、購入時から5%マイナスのまま止まっていた。

 ——仮説は崩れた。

 『下がってる時に売らない』というのは下落中に狼狽売りをしないというルール。

 株価が落ち着いている今、自分ルールに従うなら

『仮説が崩れたら即撤退』ということになる。

 私はスマホを握る手を震わせながら、売却ボタンを押した。

 初の投資結果は500円の損失。

 しかしその数字以上に、ショックは大きかった。

  

 「——なんで、あんなに考えたのに」

 そうつぶやいた時、速報が飛び込んできた。

 【ABZフーズ、競合企業ピナックと経営統合・合併を視野に協議】

 次の瞬間、株価が急騰した。マイナスから一転、+12%へ反転する。

 「……え? なによそれ……」

 売った直後に上昇?

 目の前のチャートが信じられなかった。

 こんなの、仮説でも何でもない。完全な“想定外”。

 だけど——

 「……今買い戻せば、損失を取り戻せるかも!」

 それをじっと見ていた九条が、静かに呟く。

 「——おい、お前が最初に決めたルール、忘れたのか?」

 その言葉に、背筋が冷たくなる。

 「お前が今やろうとしてるのは、“仮説ではない勝ち”を追う行為だ。

 仮説が崩れたら即撤退──それがお前のルールだろうが」

 私は、覚悟しながら息を吐いた。

 「はい……仮説外です、でも今ならまだ」

 「お前が決めた“ルール”を、お前自身が破るなら、一体何のために存在する?」

 そうだ、これは投資だけの話じゃない。

 私は、これまでずっと“他の誰か”に振り回されて生きてきた。

 母に、その男に、会社に、詐欺師に……

 だからこそ、自分のルールを初めて書いたとき、あんなに心が震えたんじゃなかったか。

 「たしかに今、私は……私を裏切ろうとしてました」

 息を吐き、スマホを伏せた。

 落ち込んでいる私に、九条が静かに言った。

 

 「いいか、偶然に頼るな。お前の目で”中身”を見て、判断したことからブレるな。それが自分を守るってことだ」

 その夜の帰り際、九条が私を呼び止め、静かに

言った。

 「……今日、お前は買わなかった。損はしたかもしれんが、それだけは……褒めてやる」

 それだけで、私は泣きそうになった。

 褒められたのが嬉しいんじゃない、心の底から”悔しい”と思ったからだ。

 

 自分で必死に考えて、これが正しいと導き出したものが、違っていた——

 それが、こんなに”悔しい”とは思わなかった。

 人生で初めての”感覚”。

 私はこの失敗を、決して忘れないと誓った。

 翌日——財界パーティに参加する日

 その前に私は、三條圭が指定した六本木レジェンド倶楽部が入る高層ビルの側にある『メゾン・ルミナス』を訪れた。

 ドアの前には、黒いスーツを着こなしたスタッフらしき人が立っていて「持たない者は入るな」という警告のように見えた。

 「あの——天道美咲です。三條さんに言われて……」

 そう言いかけたところで、スタッフはニコリと笑顔をみせる。

 「うかがっております。天道様、どうぞお入りください」

 スタッフに促され高鳴る心臓を抑えながら、私はガラス扉をくぐった。

 入った瞬間に漂う、紫檀のような香り。

 2階まで届く高い天井。

 最小限しか展示されていない高級な家具やドレス。

 私にとってここは、まさに別世界だ。

 以前なら、恐れ多くて店内を見ることすらできなかっただろう。

 すると、青くタイトなシルクのスーツに身を包んだ一人の男性が奥から現れた。

 「はじめまして。へえ、あなたが圭ちゃんの“特別案件”の子かぁ」

 女性のような口調——でも目だけが鋭く、全身に“プロ”の空気を纏っていた。

 優雅で洗練された柔らかな動作と着こなし。

 そして何より、キャラクターが際立っている。

 

 彼の名前は本庄マイク——

 業界では知る人ぞ知る天才スタイリスト。

 そして、クセの強さでも天下一品……

 私は店内の一角にある試着室に通された。

 ずらりと並ぶドレス、ヒール、アクセサリー。

 まるで超富裕層の日常を、モニター体験している気分だった。

 「さてさてぇ〜今日のシンデレラをどう仕上げてやろうかしらねぇ」

 穏やかな口調なのに、目力がやたら強い。

 「じゃあ……ちょっと、そこに立ってみて。肩の力抜いていいのよ〜」

 ライトに照らされた白壁の前に立つ私は、緊張で背筋を張り詰めていた。

 “その時—

 美咲の緊張を他所に、本庄マイクは天才ならではの審美眼で彼女をスキャンし始めていた。

 そして全身を一瞥しただけで、体幹バランス・首の長さ・目線の動き・肌の光の乗り方を、ほぼ一瞬で読み取った。

(ふ〜ん……この子、持ってるわね)

 本庄は内心で笑みを浮かべる。

 地味で“OLテンプレ”みたいなベージュのブラウスに、ややくたびれたタイトスカート。

 しかし、地味な服装と、その下に隠れている骨格と肌の質感のギャップが、むしろ本庄の興味を強くそそった。

(首筋が綺麗ね、腰のラインが甘いくせに締まりがある。

 大きな目はやや垂れ気味だけど、周囲に媚びてないのがイイわ。

 そして感情で大きさが変わるこの瞳。

 その目の奥底に宿る、強い意思……

 ……それなのに自分じゃ“少し顔が良い”程度だと思ってる。

 ……こういう子、あたし大好きよ)

 表情は柔らかく、微笑みすら浮かべているが、本庄の脳内はすでにスタイリングの“設計図”が描かれている。

 一通り観察を終えた本庄の唇の端が、静かに持ちあがる。

(この子、間違いなく化けるわ……。下手すると圭ちゃんが本気で惚れる可能性だってあるかも。ふふっ面白い)

 ただし本庄は、そんな素材のポテンシャルを本人に知られないほうが良いと考えていた。

 自らの気づきで開花する瞬間にこそ”劇的な美“があるからだ。

 こういう独特な思考こそが、彼が『特別』である理由でもあった。”

 鏡の前に立つ私を、じっと見ていた本庄が、首をかしげた。

 (何?どこか変だった!?なんかもう……怖い)

 私は、いまにも不安で押しつぶされそうだった。

「カクテル以上って言ったけど、どんな“あなた”で行きたい?」

 その問いに、私の胸がざわつく。

「どんなと言われましても……こういうの初めてなので」

「じゃあ……質問を変えるわ。圭ちゃんの好みに寄せていくか、あなたの良さを引き出すか。どっちでいく?」

 本庄の問いに、私は一瞬だけ迷った。

(最初の投資に失敗した。仮説は外れた。もしかして今日、三條さんに切られるかもしれない

 だったら、少しでも“彼の好みに寄せて”おいたほうが……)

 ——そんな思考が、頭をかすめた瞬間だった。

 脳裏に、九条の言葉が焼き戻ってきた。

 ——「勝ちたいなら、自分のルールを守れ」

 

(そうだ、投資だけじゃない。私にも|意地《ルール》がある。)

 私は少しだけ沈黙してから、ゆっくりと目を上げた。

 息を整え、小さな声で、しかし意思を込めて言った。

 「私の良さが光るスタイルで、お願いします」

 その言葉を聞いた瞬間、本庄の目が細くなった。

 (やっぱり!この子イイわねぇ)

「分かったわ。あとは任せて。ここからは私の仕事よ」

 それは本庄マイクの中にも、小さな火が灯った瞬間だった。

 それから約1時間後——

 私は、『六本木レジェンド倶楽部』の入り口に立っていた。

 ——そして、この夜が、運命をまた大きく動かすことになるとは、まだ知る由もなかった。

(つづく)

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